辰巳用水は、金沢市上辰巳町の犀川から兼六園までを流れる、約11kmの用水です。江戸時代の1632年(寛永9年)に、加賀藩の命で金沢城へ水を引くために、板屋兵四郎が完成させました。
辰巳用水は、国の史跡に指定されていて、疎水百選にも選ばれています。
また、辰巳用水は、五郎兵衛用水、箱根用水(深良用水)、玉川上水とともに、江戸初期に作られた「日本四大用水」と言われています。
金沢市市政情報デジタルライブラリーのWebページから、「辰巳用水」と「土清水塩硝蔵跡」のパンフレットをダウンロードできます。
現在の辰巳用水の取水口は、辰巳ダム下流の東岩にあります。 東岩取水口は、辰巳ダムから見ることができます。
辰巳用水は、東岩取水口から犀川浄水場まで手堀のトンネルの中を流れています。
トンネルの途中には、ところどころ横穴が掘られています。
辰巳用水は、犀川沿いの田んぼよりは高い位置を流れていますので、途中の田んぼに流す水が、滝のように落ちてきます。
ほたる橋下流の横穴近くにある滝は、清浄が滝と呼ばれています。
途中、トンネルが崩れないように、三段石垣などが造られています。
トンネルは、犀川浄水場付近まで続きます。
犀川浄水場には、兼六園に綺麗な水を送るための「辰専」と呼ばれる専用の導水管の取水口があります。この導水管の上には「辰専」と書かれたマンホールがあります。
辰専のマンホールについては、「辰専のマンホール」のWebページで紹介しています。
大道割付近には沢があり、大きく迂回していましたが、埋め立てなどが進み、一部はトンネル化されています。 辰巳用水の施設ではありませんが、辰巳用水脇に国の登録文化財に指定されている大桑配水場旧計量室があります。
大道割から錦町までは、小立野台地を登っていきます。 実際に水が坂を登るわけはなく、小立野台地の勾配よりも辰巳用水の勾配の方が緩いため、相対的に登っていくように見えるだけです。 この区間は、崖の斜面を流れているため、周囲に何もなく、辰巳用水遊歩道として整備されています。
小立野に入ると暗渠になります。暗渠部分は、金属製の正方形の蓋が見えるので、辰巳用水がどこを流れているかは、すぐに分かります。 金沢大学工学部があった場所は、石川県立図書館と金沢美術工芸大学になり、辰巳用水も整備され、自動除塵機も設置されていました。
天徳院の近くになると、辰巳用水は大きく迂回しています。 これは、辰巳用水を造った時は天徳院の境内は、現在よりも広かったため、その敷地に合わせて造られたため、ジグザクな形になったようです。
石引通り沿いは、一部は暗渠化されていますが、紫錦台中学校や金沢医療センター前は、開渠になっていて、兼六園まで流れています。
兼六園に入ると、沈砂池があります。 沈砂池を通った水は、山崎山のトンネルを抜け、曲水になります。
兼六園内では、曲水を通り霞ヶ池に流れています。
霞ヶ池は、辰巳用水の貯水池を兼ねています。 霞ヶ池には、水面との落差を利用した、日本最古と言われている噴水もあります。
霞ヶ池からは、伏越の理(サイフォンの原理)を応用して、百間堀を越えて、金沢城内に水を供給しています。
通水管は、当初は木管でしたが、十二貫野用水の石管に関する技術を利用して、木管から石管に切り替えられました。
石管は、金屋石と呼ばれる凝灰岩を繰り抜いて作られていました。
兼六園の霞ヶ池のことじ灯籠の近くに、辰巳用水の金沢城へのサイフォンの取入口と石管が残っています。
石管は、寄観亭裏のため升から、石川門の下を通って、金沢城内に繋がっていました。
金沢城内の鶴ノ丸の南門があった場所付近にサイフォンの吐出口があり、金沢城の内堀に水が引かれていました。 そのため、鶴ノ丸の南門付近には、辰巳用水の石管が展示されています。 解説版には、逆サイフォン区間の概念図と、金沢城内の辰巳用水のルート図などが描かれています。 解説版によると、サイフォンの吐出口は、二ノ丸にもあったようです。
金沢城の玉泉院丸には、辰巳用水を水源とした池泉回遊式の大名庭園がありました。 色紙短冊積石垣にある吐水口から滝のように水が落下し、段落ちの滝として流れていたようです。 現在は、吐水口から水はありませんが、いもり堀の水を揚水して、段落ちの滝が再現されています。
辰巳用水は、兼六坂上で分流し、成巽閣や国立工芸館の前を流れて、美術の小径横を滝のように落ちていきます。その後、21世紀美術館横の金沢城西外惣構として流れ、鞍月用水と合流しています。
辰巳用水は、兼六園の霞ヶ池から瓢池を通り、旧石川県庁や金沢市役所がある広坂通りにも流れています。
尾山神社の鳥居の前にも、辰巳用水の分流が流れています。
雉(鶏)取水口は、辰巳用水が完成した時の取水口で、辰巳用水のパンフレットには、犀川の対岸から撮影した写真が掲載されています。
雉(鶏)取水口跡は、対岸にあたる、金沢市水淵町の「板屋兵四郎の道」から見ることができます。
板屋兵四郎の道については、「辰巳用水 板屋兵四郎の道」のWebページで紹介しています。
「板屋兵四郎の道」を通って沢に降りると、対岸に、パンフレットと同じ「雉(鶏)取水口」を見ることができます。
雉(鶏)取水口跡は、草が生えていて、穴が良く見えませんが、滝の脇に穴らしきものが確認できます。
上流側を見ると、新辰巳発電所が見えます。
下流側を見ると、三枚水門があったと思われる場所も見えます。
雉(鶏)取水口は、犀川の川面よりも高い位置にあり、犀川の水位の低下により、上流の古川口取入口に変更されたこともわかります。
ちょうど、雉(鶏)取水口の前付近が急流になっていましたので、取水用の堰が壊れてしまったのかもしれません。
土清水塩硝蔵跡は、江戸時代に火薬を作った塩硝蔵があった場所で、「つっちょうずえんしょうぐらあと」と読みます。 金沢市に土清水町がありますが、こちらは「つちしみずまち」と読みます。 通常は何もない畑になっています。 偶然、発掘調査の現場を目撃しましたので、写真を掲載しておきます。 発掘している人に話を聞くと、水路のような部分に辰巳用水の水を流して、水車を回して塩硝を作っていたそうです。
板屋兵四郎を祀る神社は、2か所にあります。 1つ目は、板屋兵四郎が辰巳用水の工事の際に住んでいた場所にある板屋神社です。 神社は、袋板屋神社と呼ばれていますが、石川県神社庁への登録名は八幡板屋神社となっています。 神社に祀られるほど、板屋兵四郎は、地元の人のために、貢献していたと思われます。 板屋兵四郎が住んでいた場所は、大袋村でしたが、現在の地名は、金沢市袋板屋町となっていて、町名にまで板屋の文字が付けられています。 板屋兵四郎が造った辰巳用水は木管でしたが、なぜか、袋板屋神社には辰巳用水の石管が展示されています。
もう一つの板屋兵四郎を祀る板屋神社は、辰巳用水の東岩取水口から近い山の中にあります。 こちらは、1960年(昭和35年)に創建された新しい神社です。 辰巳用水ゆかりの金沢市上辰巳町にありますが、山の中なので、板屋神社から、辰巳用水は全く見えません。 板屋兵四郎が造った辰巳用水は木管でしたが、こちらの板屋神社にも石管が展示されています。
また、板屋神社遥拝所は、金沢神社の隣にあります。 板屋兵四郎が造った辰巳用水は木管でしたが、こちらの遥拝所にも石管が展示されています。
辰巳用水の石管は、金沢市内のいろいろな場所に展示されています。
中でも、石川県立歴史博物館の石管は、オブジェになっていて、石管内から放水するところも見ることができます。
旧金沢医学館(旧津田玄蕃邸)の玄関脇にも石管が展示されています。 旧金沢医学館には、特殊な継手部分の石管もあります。
尾山神社の神門脇にも石管が保存されています。 尾山神社があった場所は、金沢城の金谷御殿があった場所で、辰巳用水の分水を引水していたため、辰巳用水の石管が展示されています。 また、尾山神社の合同庁舎側の石垣の上にも石管が見える場所があります。
尾崎神社の神門脇にも石管が展示されています。 辰巳用水分流再興碑があり、解説版によると、大手堀の辰巳用水の水を近江町方面の防火用水として利用するため、辰巳用水の分水を復活させた記念碑みたいです。
金沢市角間町にある金沢大学自然科学本館前に、旧石川県庁で発掘された石管が保存展示されています。
辰巳用水の石管には、富山県砺波市庄川町金屋で採れる金屋石が使われています。
金屋石の採掘場跡は、対岸にある水記念公園から見ることができます。
金屋石は良質な緑色凝灰岩で、石質は柔らかく加工しやすいという特徴があります。
石管は、船で高岡木町から能登半島を回って宮腰浦(現在の金石港)経由で運んだと言われています。
加賀藩では、十二貫野用水の石管に関する技術を利用して、辰巳用水を金沢城内に引くための管を木管から石管に切り替えました。
そのため、金屋石の採掘場跡の見える水記念公園には、十二貫野用水の石管と辰巳用水の石管が展示されています。