五郎兵衛用水は、市川五郎兵衛真親が、佐久平の原野に水田を開発するために、江戸初期の1631年(寛永8年)頃に、私財を投じて完成させた全長20kmの用水路です。
五郎兵衛用水は、疏水百選、世界かんがい施設遺産に指定されています。
また、五郎兵衛用水は、辰巳用水、箱根用水(深良用水)、玉川上水とともに、江戸初期に作られた「日本四大用水」と言われています。
佐久市の五郎兵衛記念館のWebページから、五郎兵衛用水に関するパンフレットをダウンロードできます。
五郎兵衛用水の取水口は、鹿曲川(かくまがわ)の長野県佐久市協和にあります。 現在の取水口の堰堤の上流には、石積みの堰堤の旧取水口がありました。
取水口の近くには、沈砂池や、小さな祠の水神社があります。 現在の五郎兵衛用水は、トンネルとなっていて、その入口を見ることができます。
五郎兵衛用水のトンネル入口の左側の鹿曲川の崖に沿って、江戸時代の堀貫(トンネル)の跡が見れます。 堀貫の中には、手掘りの跡や、側面には灯りを置いた穴などが残っています。 固い岩盤がある時は迂回して掘ったり、両側から掘った時の誤差があったりするため、堀貫の中で折れ曲がっている箇所もあります。 堀貫の底面が周辺よりも高い場所もありますが、使われていた時には、木樋や堤によって水が流れていたと思われます。
五郎兵衛用水は、鹿曲川流域を流れた後、布施川流域に行くため、片倉堀貫(トンネル)が造られました。片倉堀貫は全長270mで、五郎兵衛用水では最長の堀貫です。 ただ、片倉堀貫の入口跡には、石碑と案内板がありますが、用水路跡と思われる凹みが分かる程度でした。
片倉堀貫を抜けると、五郎兵衛用水は布施川を掛樋で渡ったそうです。 ただ、布施川沿いに石碑だけが残っているだけです。 現在の五郎兵衛用水は、サイフォンで布施川の下を通っています。 五郎兵衛資料館に布施サイフォンの模型などが展示されています。
宝泉寺付近の五郎兵衛用水は、山沿いを等高線に沿って流れています。 この付近では、山腹に築いた用水堰跡が残っています。 看板の後の土手が用水堰跡になります。
長野県佐久市矢嶋には、五郎兵衛用水の水を湛える大池があります。 大池からは、浅間山が見渡せます。
上原大盤台には、五郎兵衛用水分水があります。 ただ、暗渠となっていて、分水升は見えませんが、分水割合として、相浜8寸、上原1尺5寸、中原・下原4尺2寸と書かれています。
五郎兵衛用水は、低い土地にも水を流せるように、つき堰と呼ばれる少し高い土手の上を流れています。 つき堰の周りには五郎兵衛用水によって灌漑されている水田が広がり、浅間山をバックに見渡すことができます。
五郎兵衛記念館は、五郎兵衛用水を開削した市川五郎兵衛真親に関する資料館です。
市川五郎兵衛は、鉱山開発や新田開発など、産業振興のために尽くしたいという志を持っていました。
そのため、徳川家康の家来になることを断りましたが、徳川家康から開発の朱印状を貰っています。
五郎兵衛記念館では、徳川家康の朱印状などの資料が展示されています。
他には、小方儀と呼ばれる羅針盤や、子丑寅と書かれた方位磁石などの測量器具が展示されています。
五郎兵衛記念館の隣には、市川五郎兵衛真親を祀る真親神社があります。