十二貫野用水は、黒部峡谷の宇奈月温泉の上流にある尾ノ沼谷から取水し、標高250mほどの十二貫野台地を潤している長さ約24kmの農業用水で、疎水百選にも選ばれています。
江戸時代の1841年(天保12年)に、椎名道三が、加賀藩の命を受けて、高度な技術を使って土地を切り開き完成させました。
水土里ネット富山のWebページから、「十二貫野用水」のパンフレットをダウンロードできます。
十二貫野用水の取水口は、黒部峡谷の宇奈月温泉上流の尾ノ沼谷にあります。 尾ノ沼谷は、滝のような急流で、砂防堰堤が多数造られています。 現在の取水口は、砂防堰堤上の格子状の取水口となっています。 取水口からは、トンネルになっているため、用水は見えません。 地上には、保守用の施設があるだけです。 尾ノ沼谷は、対岸に黒部峡谷鉄道のトロッコが走っているのが見える秘境です。
十二貫野用水は、現在も農業用水として使われており、新しく導水管を設置したり、トンネルを掘ったりして、管理コストを下げています。 そのため、開削時の十二貫野用水が、そのまま残されている区間もあります。
十二貫野用水の第一分水は、十二貫野湖に向かう本流と龍ノ口用水に分水するために設けられました。
分水口の広い方を大口、狭い方を小口といい、その幅は下流の灌漑面積に応じて決められています。
現在の幅の単位は「mm」ですが、昔は「毛」が使われていました。
1毛は、約0.03mmになります。
現在の第一分水付近は暗渠化され、暗渠の上は管理道となっています。
龍ノ口用水は、十二貫野用水の分流で、深い谷を越えて栗寺台地に水を通すため、伏越の理(サイフォンの原理)を応用していることで有名です。
通水管は、金屋石と呼ばれる凝灰岩を繰り抜いて作られ、継ぎ目は水漏れしないように「松やに」「樋わた」「テレピン油」を練り合わせて接合していたようです。
流入側の下げ管の高さは32.7mで、流出側の上げ管の高さは30.9mという大規模なもので、吐き出し口から吹き出す水が、龍の口から水を吹き出すのに似ていることから、龍ノ口用水と呼ばれるようになったそうです。
付近には、石管の展示施設や、龍ノ口用水第一分水などがあります。
十二貫野湖(県営中山ため池)は、十二貫野用水の水を貯めていた13か所のため池を統廃合し、1999年(平成11年)に完成しました。 十二貫野湖の脇には、十二貫野用水の石碑や、龍ノ口用水の石管の展示施設などがあります。 十二貫野用水の石碑の後に見える山は、立山連峰の南端にある僧ヶ岳です。
十二貫野湖の脇にある龍ノ口用水の石管の展示施設では、実際に使われていた龍ノ口用水の石管が多数、展示されています。 中には、龍ノ口サイフォンの泥抜き用の穴の開いた石管も展示されています。
十二貫野用水よりも標高が高い場所は、水が少なく耕作地には適さないため、くろべ牧場(旧新川牧場)として、乳牛や山羊や羊などが飼われています。 くろべ牧場は、標高約350mの高台にあり、黒部川扇状地や富山湾や能登半島まで眺望できます。
十二貫野用水の石管には、富山県砺波市庄川町金屋で採れる金屋石が使われています。
金屋石の採掘場跡は、対岸にある水記念公園から見ることができます。
金屋石は良質な緑色凝灰岩で、石質は柔らかく加工しやすいという特徴があります。
石管は、船で高岡木町から石田浜経由で運んだと言われています。
加賀藩では、十二貫野用水の石管に関する技術を利用して、辰巳用水を金沢城内に引くための管を木管から石管に切り替えました。
そのため、金屋石の採掘場跡の見える水記念公園には、十二貫野用水の石管と辰巳用水の石管が展示されています。