旧赤穂上水道は、赤穂の城下町へ飲料水を引くため、江戸初期の1616年(元和2年)に造られた上水道です。 赤穂の城下町は海に近いので井戸を掘っても塩水が出るため、飲料水としては使えませんでした。 そこで、7km上流の千種川から水路を造り、赤穂城と城下町の各戸に水を通しました。 旧赤穂上水道は、神田上水、福山旧水道とともに、江戸初期に作られた「日本三大上水道」と言われています。 赤穂観光協会のWebページから旧赤穂上水道マップを、ダウンロードすることができます。 発掘調査時の写真は、赤穂市立有年考古館のWebページの、特別展「発掘された上水道」の資料に掲載されています。
旧赤穂上水道の最初の取水口は、切山隧道でした。 千種川の淵があった部分にトンネルを掘り、取水していました。 切山隧道の出入口はコンクリートで被覆されていますが、隧道の内部には手掘りの跡が残っています。 旧赤穂上水道の取水口は、下流に移動しましたが、農業用水路として使われています。 千種川の淵は、埋め立てられて田んぼになったため、現在は上流にある中山頭首工から取水しています。
赤穂城の城主が池田氏から浅野氏に変わった1645年頃に、取水口は、高雄船渡に変更されました。 千種川に石の堰を築いて取水していましたが、さらに下流に移動したため、堰は残っていません。 河原には堰に使われた石材が残っていて、堤防には高雄船渡取水井堰跡の標柱があります。 千種川の対岸には、新幹線が走っています。
1702年には、取水口は、木津に変更されました。 当時の堰や取水口は残っていませんが、現在の赤穂水道も木津から取水しているため、木津頭首工や木津水源地があります。
木津には、旧赤穂上水道導水路と農業用水の交差点も残っています。
農業用水は悪水路と呼ばれ、旧赤穂上水道の導水路とは明確に区別されていました。 浜市、砂子、北野中にかけては、導水路と悪水路が並行して流れています。
兵庫県赤穂市北野中には、旧赤穂上水道沿いに赤穂市の浄水場がありますが、木津頭首工から導水管で取水していますので、旧赤穂上水道と、関係はありません。
兵庫県赤穂市山手町には、旧赤穂上水道と戸島用水の分水となる戸島枡があります。
戸島枡で分水した戸島用水は、山の麓に沿って流れています。
旧赤穂上水道は、旧姫路海道沿いに流れていて、導水路交差点で、加里屋地区への農業用水との分岐していました。 導水路交差点は、小公園となっていて、赤穂上水道の導水管を使ったモニュメントが設置されています。
JR赤穂駅と赤穂城を結ぶ「お城通り」と「旧姫路海道」の交差点には、旧赤穂上水道のモニュメントがあります。 モニュメントは、発掘された旧赤穂上水道の導水管や汲出桝などを使って造られています。
お城通りには、百々呂屋裏大枡がありました。 百々呂屋裏大枡は、2間(4m)四方の大きさで、発掘調査で分かった位置が、歩道上に表示されています。 百々呂屋裏大枡で、開渠で導水されていた水の砂などを沈殿させて浄化し、暗渠となって地下を通し、瓦管、竹管、木管、土管、陶管などによって、赤穂城内や城下町の各戸に給水されていました。 城下町の各戸に給水していた点が旧赤穂上水道の特色となっています。
お城通りには、息継ぎ井戸があります。 忠臣蔵で浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央を切りつけた刀傷事件を、早駕籠で知らせにやってきた使者が、井戸の水を飲んで一息継いで赤穂城に向かったと伝えられています。 井戸と言っても、湧き水の井戸ではなく、旧赤穂上水道の水道水の流れる井戸でした。
赤穂城の大手門の前にも、給水管を使った旧赤穂上水道のモニュメントがあります。 赤穂城内には、大手門前の三の丸堀をサイフォンの原理を使って水を送っていました。
赤穂城内にある近藤源八宅跡には、旧赤穂上水道の汲出枡が残っています。
赤穂城本丸門の中に、旧赤穂上水道で使われていた導水管(瓦管、備前焼管、土管)が展示されています。 備前焼の給水管は、城内の上級武士の邸宅への給水に使われていました。
赤穂市立歴史博物館には、旧赤穂上水道の展示コーナーがあり、旧赤穂上水道で使われていた導水管や枡などが展示されています。 赤穂市立歴史博物館の展示室は撮影禁止でしたので、パンフレットの写真だけ紹介しておきます。